尚冨の立川三昧

第1回 立川流との出会い − その1

 亀崎に生まれて育つと言うことは、ものごころついた時からごく自然に、あの有名な彫刻のついた山車を見て育っているわけです。最初から自然に伝統彫刻の美術の中にとけこみながらの生活ですので、いつから立川流を意識したかというのは非常に難しいかもしれません。気が付いたら、お祭りをする中で彫刻を自然に見ていた。というのが本当のところだと思います。
 それはそれとして、子どもの頃、よく親戚の者から、私の分家の先祖は宮大工をしていたと聞いていました。それが立川流の宮大工だったという事を、当時は知らなかったわけですが、いろいろな事に興味をもって、お祭りや神社仏閣に触れるにしたがい、だんだん明白になってきました。その親戚の宮大工というのが、江戸時代に活躍しておりました立川流の知多の一門の青木友助という人だったのです。この青木さんは知多郡武豊町の小迎地区の山車を棟梁として作っております。その時は知多の棟梁の総帥、岸幕善兵衛という人が後見について、知多の立川一門が総出で作ったという山車なのです。この青木友助は小迎地区の山車を作ってから東本願寺の仕事にいくわけです。そこで、関西の仕事が非常に増えてしまいまして、とうとうこの知多から離れて、関西で住むようになりました。現在もその直系の子孫は東大阪市に住んでおります。その青木友助の孫が亀崎の方へ来まして、私どもの間瀬一族の方へ入っていろいろ仕事をしていました。そんな関係で、立川流との出会いを意識したのは、青木友助のことがいろいろわかってきてからという事になります。
 これが立川流との出会いなのですが、実際に彫刻をなぜやりだすかということになりますと、別の意味もあります。これは立 川流とはちがって美術との関係なのですが、私の親のおじさんに服部有恒という人がおりまして、この人は日展の日本画家でした。今も作品がいろいろな所に残っておりますが、主な物はこの近辺ですと、名古屋市役所の貴賓室にある豊臣秀吉です。一度見せていただいた事がありますが、非常に緻密で繊細な絵だなという感想をもちました。他には豊川稲荷の寺宝館、東京富岡八幡、伊勢神宮徴古館など全国各地にあります。この服部さんの影響で私も親から絵を習うように勧められて、三年生の頃から絵を習い出しました。その当時は親の勧めに従ってという感じでした。絵も好きだったのですが、だんだん造形的なもの、形のある物の方に興味をひかれる様になりました。
 ちょうどその頃、名古屋城が再建されました。金の鯱ほこのパレードをテレビで見まして、金の鯱ほこに妙にひかれました。その金の鯱を粘土で一生懸命造ったという記憶があります。そうしたことから、物をどんどん造っていくという事を四年生くらいから始めたと思います。五年生になりまして、山車の模型を作る様になりました。小学生時代の山車作りの中で彫刻への関心が非常に強くなっていった様に思います。
写真 上:武豊町小迎 「鳳凰車」(檀箱彫刻 間瀬恒祥・平成6年) 下:「豊臣秀吉」(部分・昭和8年)
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