尚冨の立川三昧

第2回 立川流との出会い − その2

 わたしは亀崎の石橋組青龍車という山車組なのですが、普通は、自分の組の山車が自慢で、非常に愛着があるものです。
 
 しかしわたしの場合は特にそのようではなく、どこの山車も興味がありました。
 ですから亀崎の5台ある山車全部の模型を作りました。その中でも自分が特に凝って作っているのが力神車です。何が自分の興味をひいているかと考えますと、やはり力神なのです。あの力神は立川流に多くある力神の中でも本当に傑作でしょう。そんな作品なので子ども心にも胸をうたれるものがあったと思います。自分の山車にも力神を彫って取り付けたものが、今でものこっています。そうこうして、立川流彫刻に非常に興味を持つようになりました。立川流の関係者が身内にいた事と、美術関係者がいた事が、くっついて、両方の要素が重なり合い、ああした彫刻をしてみたいなという気持ちが生まれてきたと思います。
 
 大学に入学し、多少ゆとりもできましたので、じっくり彫刻をしてみたいという気持ちになりました。当時半田の二代目彫常さん新美茂登司先生の所へ足しげく通うようになったわけです。ひとつ彫っていっては指導を受けという「通い弟子」という形で日参しておりました。その中で彫刻技術を覚えていきました。それと同時進行で、どこにどんな物があるのか、どういった作品が作られているのか、誰が作ったのか、など非常に興味があり、いろいろな調査をしました。知識的な事と、技術的な事との両面が学生時代に培われたかなと思います。このように徐々に立川流の彫刻の中に入り込んでいくわけです。いろいろな人との出会い、いろいろな作品との出会いがありました。
 そんな時一番感じたことが後継者の事でした。後を継ぐ人がいないという事です。二代目の彫常先生は苦労されてきた方でした。初代の方は何人もお弟子さんを抱えて仕事として成り立ってきたわけですが、二代目彫常先生は戦争もはさみまして、非常 に大変な時期でした。ですから、「内弟子はとてもとってやれる仕事ではないので、弟子はとりません。」と言われておりました。私はこの後、彫常先生の目の前の学校である半田小学校に勤めることになりました。これも縁なのでしょう。すぐ近くなので、土曜日の午後などに先生のところにお伺いして指導を受けることができました。 勤めてからもかえって身近になりました。わたしは、職業を別に持ち通って教えて頂くというので、内弟子ではないから構わないという事だったらしいのです。技術だけではなく、ありとあらゆる話を聞かせていただきました。実際には外には言えない秘密の裏話も随分聞きました。彫常先生のすばらしい人柄に触れ、どんどん没頭するようになりました。そして、なんとか後継者を残していかなくてはならないという気持ちになりました。また自分の身内もやっていた事なのだし、別の職業についている者であっても、職人としてではなくて、技術だけのプロというものを確立してみたらどうかと思いました。たまたま教師というのは研修するという時間が夏休みなどに設けられているわけですから、逆に教師になったということは、その使命があるのではないかと思いました。一度そういうふうに取り組んでみようと思ったわけです。これが、私が幼い頃から実際に彫刻をするようになるまで、立川流彫刻との出会いという事になるかと思います。
上から 小5の時作った亀崎の山車模型、 山車模型のうち「青龍車」、 二代目彫常先生と恒祥、 「力神」立川和四郎富昌
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