尚冨の立川三昧

第6回 立川流の子孫と再興−その1

 きょうは、「立川流の子孫と再興」というテーマで話をします。

 立川流におきましては、立川宗家はもちろんの事、立川家との血縁の有無にかかわらず、諏訪の立川流を担ってきた棟梁はたくさんいます。その末裔の方々は全国各地にみえまして、先祖の偉業を尊びながら、いろいろな大切な資料を保管され、今日に至っています。

 従来、立川流の研究というのは、十分には成されておりませんでした。たまたま研究者の方が出会った末裔の方の持っている資料をもとにして書かれた立川流の全体像が、一人歩きをしてしまったりする事もありました。なかなか全部を網羅した立川流の研究物というのは、今まで発行されておりませんでした。

 私たちは、立川流を再興していこうという事で活動してきたわけなのですが、立川流の全体像を正しく把握して、そして将来につなげていくという事が大切ではないかと考えておりました。私も立川流棟梁であった多くの末裔の方にお会いしましたが、それぞれ個性があって、いろいろな角度から立川流について思いを語られていました。やはりこれは、諏訪の立川流の全体像をひとつにまとめていくことが、正しい伝承には大切な事、また必要な事だと考えるようになりました。
 
 そうした中で、平成5年に、立川流一門関係者の交流会というのを企画、第一回を茅野市で開催しました。立川流の子孫たちが一同に会するのはもちろん初めての事でした。そうした意味もありまして、諏訪の立川流の初作ともいうべき、白岩観音堂で記念の会を開催する事にしました。立川宗家、その一門の末裔、そして現在立川流彫刻に取り組んでいる我々という関係者全員が一同に会しました。懇親の中で先祖の業績などを語らい、それぞれのエピソードを発表したり、和気藹々の中でいろいろな意見が交換されました。立川流という文化を担ってきた先祖と、その歴史をひとつひとつみなさんが語らう中で、全体の像が浮かび上がってきたような気がします。
 そして第二回目は諏訪の立川流の第二のふるさととも言うべきこの知多、亀崎で開催いたしました。ご承知かもしれませんが、知多半島は、立川喜四郎とか、立川甚右衛門とか立川の名取りとなった人をはじめ、多くの宮大工が集団で一門となっておりました。言わば、分家のような存在で発展をしてきている土地でもあります。亀崎潮干祭の見学を兼ねてという事で来ていただきました。立川宗家から3名、立木家から2名、野村家から2名また知多一門の多くが集まりまして、交流会を行いました。話し合いの中で、たとえば、あるお宅に祝詞がまだ残っている、また他のお宅にはその神事に使われた緋衣(ひごろも)があったと、そしてまた別のお宅には鞴(ふいご)があって、どうも道具を自分で作っていたのだというような、民族的な資料のお話もたくさん出ました。こうした事を繰り返す中で、徐々に立川流の全体的な事が分かってきました。一門関係者の中で、正しい全体像という事の認識が非常に深まりまして、わたしたちと行動を共にして、再興をしていこうという事になってきました。

 こうしてわたしたちの再興活動への理解支援が生まれてきました。平成10年、再興立川流後援会が結成された折に、主要な棟梁家の大多数がその一員に加わり、江戸期の立川流の家々と現在取り組んでいるものが合体した全国組織として正式にスタートしました。
 過去の立川流と現在の再興に取り組むものが一体となり、再興、保存、伝承活動へと発展してきたわけです。
写真  左上: 富棟の初作「白岩観音堂」前に勢揃いした立川流一門関係者
  右下: 恒祥から潮干祭の山車の説明を受ける末裔の方々
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