尚冨の立川三昧

第7回 立川流の子孫と再興−その2

 立川流の末裔の方々との交流会をきっかけに、研究所では立川流の全体的な系統図を調べてきました。

 今、研究所には立川流に関わった一門の人々の名前をすべて網羅した物があります。おそらくこれ以外にも多数存在するとは思いますが、今のところ研究所で把握しているのが、次にあげる表にしたものです。(一門系統図参照)
 立川流は、一般的には広辞苑を引いても「諏訪の立川和四郎富棟が興した宮彫りの流派」とあります。これが立川流の代表的イメージとして伝わっておりますので、「立川家=立川流」と考えられがちですが、実際はその発展とともに広がりがありますので、必ずしも立川家だけが立川流というわけではありませんでした。
 大きくまとめてみますと、初代の富棟、二代の富昌、この辺りまでは、立川家を中心として和四郎という人が大棟梁として全体をしっかりまとめあげていたように思います。そのあと三代目立川和四郎富重と続きますが、この辺りからいろいろと分散を始め、地方にも弟子がたくさん出来てきます。そして幕末から明治の初めにかけては、立川音四郎種清(本名立木音四郎)という棟梁が諏訪の立川流全体をまとめていた事が調査の中でわかってきました。これは今まではほとんど知られていなかった事実です。幕末から明治にかけて「大棟梁立川音四郎種清」と記述された資料もありますし、明治になってからは立川和四郎宛ての手紙がこの音四郎の所に届いていた事実もあります。この当時「立川和四郎様」として手紙を出した時に、立川流全体をまとめていた音四郎の所へその手紙が届き、仕事を請け負っていたという事が資料や記録の中から明らかになってきました。ですから諏訪立川流全体をまとめた大棟梁というのは立川三代、そして幕末から明治にかけては立川音四郎という流れになっているようです。

 一門各棟梁がそれぞれの地方で活躍していますので、その土地土地で活躍した棟梁が立川の中心であったかのように思われていますが、全体を調べていきますとちょっとイメージが違ってきます。

 こうした系統図を完成させていくには、広い視野で公平な発言をされる末裔の方々の存在が不可欠です。従来立川流についてはまだまだ調査が不十分で不明な点が多々あったわけなのですが、子孫との交流会によって次第に全体像が明らかになってきました。例えば愛知県豊田市に大原さんという方がおみえになります。この大原さんの持ってみえる下絵と資料を探っていきますと、坂田準次郎にたどりつきました。そして立川音四郎末裔の立木家の資料からは坂田亀吉にたどりつきました。要するに大原さんは音四郎一門の流れであったという事がわかります。このようにして一門の系統図というものが出来あがってきました。

 知多地方においては、二代目立川和四郎富昌が亀崎の力神車の山車建造に招かれます。この時、従来より地元で山車建造に関わっていた知多の宮大工が一門に入っていったという事なのですが、その後の調査の中で、立川と関わる知多の宮大工の集団というのは、岸幕家、江原家一門に限られていたことがわかりました。岸幕家、江原家以外にも知多にはたくさんの宮大工集団が存在したわけですが、その方々は関わっていないようです。

 研究所が作成しましたこの系統図は、今回初めて公開するものです。おそらく立川流を研究されてきた方々も初めて見る名前、初めて見る系統の流れというものが出てきていると思います。これは山車の調査や神社仏閣の調査だけでは出来得ない、末裔の方々との交流の中で出来上がってきた系統図なのです。
 今後も末裔の方々との交流をさらに広げ、この系統図をより完璧なものにしていきたいと考えています。

写真  左上: 立川音四郎種清  右下:坂田亀吉の弟子入り証文
(一門系統図参照) 【 戻る 】 【 次へ 】