尚冨の立川三昧

第11回 立川流の秘密1−下絵の元絵

 立川流彫刻の特徴を語る際、「下絵が優れていることが、その彫刻をより優れたものにしている」というのが定説ですが、実はさらにその下絵の元となる「元絵」が存在していたという秘密についてお話しします。

 今から10年程前、立川常蔵昌敬の子孫で「宮坂家文書下絵集」を発行した石井茂さんが立川流彫刻研究所を訪れた際に、私がお見せした下絵の元絵にかなり驚いておられました。まさか、こうしたものを使って下絵を描いていたとは想像もしていなかったようです。
 以前から立川流の彫刻は「北斎漫画」の影響を受けているのではないかと言われていました。確かに北斎漫画を引用している部分もありましたが、それとは別にきちんとした「教科書」「図案集」のようなものが存在していたのです。

 江戸時代の工芸品を見ますと、彫刻だけに限らず他の分野でも同じような題材、同じようなポーズをよく見かけます。例えば仙人などは特にその傾向があると思います。
 それには秘密がありました。江戸時代を代表する絵師たちの一部は、一般的な鑑賞のための絵画作品とは別に、他のジャンルの職人向けに、創意を工夫出来るような元となる素材・図柄・図案集を作っていたのです。鍬形帚Vや葛飾北斎もそうした絵師でした。
 立川流の中では、この鍬形帚Vの「諸職画鏡」、あるいは葛飾北斎の「萬職図考」といった職人たちの教科書に当たるものをよく活用していました。特に立川常蔵昌敬はこの種の本をよく使っていたように思います。「唐子遊び」「三国志」、それから「蟇仙人」「鉄拐仙人」これらの下絵はすべてこうした教科書にでているものです。同じ教科書をもとにして、金工をやる人も、彫刻をやる人も、陶芸をやる人もそれぞれ自分なりのアレンジをして作り上げていきます。そのため、ある程度、姿、形、ポーズといったものが同じ様になったわけです。

 ここで、立川流が引用している実例を少し紹介したいと思います。
 例えば「鍾馗の鬼退治」。鍾馗様が鬼を押さえ込んでいる図面などもそうしたものから引用しています。 この「鍾馗の鬼退治」は3代目立川和四郎富重作といわれる美浜町の山車「護王車」の壇箱の中に付いていますが、この教科書を利用していたことは彫刻のポーズからみて明らかです。

 また乙川浅井山の山車彫刻に「牛若丸と烏天狗」の図がありますが、これは「鞍馬通い」という題で北斎が描いているものなのです。これを立川音四郎が引用しています。

 実は今回、美浜町の調査の中で新たに出てきたものがあります。北斎の「萬職図考」の写本と言いますか、模写をした図というのが立川甚右衛門の古文書の中から発見されました。以前にも立川音四郎の古文書に同様のものが発見されておりますが、新たな今回の発見によって諏訪の立川流の人たちと知多の立川流の人たちが同じ原図を元に下絵をあみ出していたということが分かってきました。
 ただ、立川流の棟梁は画家としても非常に優れておりましたので、この原図を元にたくみに自分のものにしておりました。その自分のものにした絵画が美術的にも非常に優れておりましたので、さらにそれを立体化した彫刻がすぐれた作品となって生まれていったわけなのです。

 立川流の彫刻が出来るまでに、実はこうした秘密が隠されていたのです。

写真  上右:蟇仙人・鉄拐仙人(成岩東組旭車脇障子) 上左:蟇仙人・鉄拐仙人の元絵
中左:「鍾馗の鬼退治」元絵と彫刻(布土上村護王車壇箱)
  下:乙川浅井山宮本車「牛若丸と烏天狗」 元絵・下絵・彫刻
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