尚冨の立川三昧

第12回 立川流の秘密2−葡萄採り仙人の元絵

 立川流彫刻の題材というのは、江戸の絵師の発行した職人用の教科書、「絵手本」というものによるところが多いという話を前回いたしました。 この事は、知多郡の阿久比町誌祭礼民俗編の方にも記載しておきました。
 過去において、立川流研究者の間で、北斎漫画から引用したと書かれている場合がよくありましたが、この北斎漫画の影響はさほど受けておらず、現実には、この職人用教科書によるものが多かったように思います。

 以前私が、亀崎西組花王車の二代立川和四郎富昌の彫刻を修理した時に下絵がありませんでした。それでは、この題材はどこの元絵からきたのか調査をしたことがありました。
例によって各種「絵手本」や「北斎漫画」を調べてみましたが、これらの中に元絵と思われるものは発見できませんでした。
この脇障子彫刻は、葡萄を採っている南蛮人風の異国人のおとな二人と立川流の題材として一般的な唐子がひとり彫られているのですが、このおとなと子どもがどうもつながらない不自然さがありました。何かを組み合わせた感じが強いなと思っていました。このユニークさ、特異性から考えても、立川和四郎富昌がまったくのオリジナルで描いたとは考えにくく、何か元になる物がなければ出来ない事だと思っていました。
 背伸びをして葡萄を取っている人の足の感じ、ふくらはぎの感じとかを見ていますと、北斎の中にこの感じがあったというのを思い出したのです。研究所にある図を北斎にしぼって調べたところ「巡礼」という絵にたどり着きました。この絵はひとりが四つん這いになって、その上にひとりが乗って、背伸びをして、字を書いているというポーズです。まさしく西組花王車の「葡萄採り仙人」と呼ばれているものと、ポーズの構図がまったく同じでした。「なるほど!北斎のポーズを引用してきたな」とはっきりわかりました。
 ただ、異国人とはつながらないのです。異国人はいったい何なんだろう。ということで今度は北斎の異国人を描いた作品を調べていきました。こういった服装をした人物はいくつかありましたが、特に「絵手本」から発見することはできませんでした。そこで「絵手本」ではなく、北斎が挿絵を手がけた他の書物を調査したところ「唐詩選」という唐の時代の詩を集約した書物の挿絵の中についに発見しました。

 この「葡萄採り仙人」の元絵となったのは、実はその中にある五言律詩の中の王維昨「送劉司直赴安西」(劉司直の安西に赴くを送る)という詩の挿絵であることがわかりました。
劉司直(りゅうしちょく)という人物については分かっておりませんが、司直は官名でこの地の任務に赴くのを送るという意味です。送られるその土地は、中国の西域のウイグル地方の庫車(クチャ)というはるかな辺境の地で、葡萄の産地でありました。ここへ行くのはとても大変な事なので、人を送る言葉というものが出てきたのだと思います。ウイグル地方の庫車(クチャ)という地区の様子を描いたのが、この葡萄を取る風景なのです。
 いまの日本には、デラウェアという葡萄が、シルクロードを伝わってきたわけですが、まさにその元になる所だろうと思います。ここに「葡萄採り仙人」の元絵となった絵が現れました。この立川和四郎富昌作と言われております「葡萄採り仙人」の元絵は、一枚の絵の中に葡萄を取る人と、それを受け取る人のふたりの人物が描かれております。これを左右の脇障子の2面に分散して、アレンジをするわけですが、そのアレンジの仕方が非常におもしろいのです。これぞまさに、立川流彫刻の下絵のアイデアの傑作であろうと思います。この北斎の「唐詩選」をもとにした立川流下絵について、公に広く発表するのは今回が初めてです。

この細かい解説については、また彫刻のことで解説したいと思いますが、きょうは、職人用の教科書、「絵手本」以外の非常に難しい書物からも立川流彫刻の題材は引用されているという例をお話しました。このことは、その当時の立川流彫刻の棟梁たちが、かなり高度な学識を持っていたという証拠になると思います。
写真  上右:葡萄採り仙人(亀崎西組花王車脇障子) 中左:『巡礼』(国立ベルリン東洋美術館 )
下右:唐詩選画本より(天保年間)
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