尚冨の立川三昧

第14回 知多の宮大工

 昔から「横松大工、萩左官」という言葉があります。これは、かつて知多半島の阿久比町横松地区は大工さんがたくさん住む「大工村」とでもいうべき地区で、その隣の萩地区は同様に「左官屋村」であったということを表す言葉です。
 この「大工村」横松地区こそ、知多の宮大工の総帥善兵衛の「岸幕家」とか、「江原家」あるいは「山本家」「榎本家」といった有名な一派が住んでいたところでした。
 岸幕(がんまく)という名前はとても珍しい名前で、知多半島では他に存在しませんので、おそらく他所から移り住んできたものと考えられますが、いつ、どこからこの横松に来たのかははっきりしておりません。また一度調べてみたいと思っています。

 「尾張巡行記」によりますと、『知多には宮大工の村があって、非常に優秀な人たちが住んでおり、尾張だけではなく遠く三河の方まで仕事に出かけりっぱな建造物を残した』と書かれています。
 これは江戸時代の書物に書かれているわけですが、これを実証するような資料がいろいろ出てきました。ちょうど私が阿久比町史の編さんに関わっている時のことです。半田市在住の宮大工の子孫の家から「松平高月院尾州横松山本金四郎」と書かれた古文書が出てきました。これは、木取り帳なのですが、松平高月院というのはどこだろうとよくよく考えて見ますと、徳川家康の先祖・松平家の菩提寺にあたるのがこの松平高月院でした。つまり豊田市の松平郷の徳川家ゆかりのお寺を、知多の宮大工が建てていたという事がわかったのです。これは、確か寛政年間の資料でした。数年前この松平高月院に行ってきましたが、その当時のものなのか、極彩色の名残りのとても風格ある建物でした。

 それから岡崎に慈光寺というお寺があるのですが、これは立川常蔵昌敬が彫刻をしているお寺です。ここの棟梁がやはり知多の棟梁で、棟札には山本金四郎、榎本清兵衛という方の名前が連なっていました。
 このように、「尾張巡行記」に書いてある事が事実であるという事がいろいろな地区を調べている間にわかってきました。それほどまでの力を持った宮大工の集団がなぜこの知多半島に住みついたかは、未だ不明な点が多くあります。
 この知多の宮大工集団と立川流との交流は、文政9年からの「亀崎中切組力神車」の建造から始まったわけですが、その時にこの宮大工の集団の中で、力神車の棟梁となっていたのが江原庄蔵、岸幕善次郎というふたりです。ふたりが棟梁として並んでいることは珍しいことで、普通はひとりが棟梁、その次が脇棟梁となるわけですが、この時はふたりが並んでいるのです。
 私は当初岸幕と江原というのは二大棟梁でライバル同士であろうと思っていましたので、そのふたりが一緒に仕事をするということに違和感を感じていました。しかしその後の調査の中で、岸幕家と江原家は実は親戚同士の関係であることがわかりました。岸幕さんの子どもが江原家に嫁ぎ、江原さんの子どもが岸幕家に嫁ぎという形で両家の結びつきは強固なものであったようです。
 天下の立川を迎えるにあたり、敬意を表する意味か、あるいは総力を結集するために岸幕、江原の両家がこぞってこの力神車の建造にたずさわったのか、とにかく例の無いことです。

 横松にいる岸幕善兵衛という大棟梁を筆頭として、知多につながる岸幕の一派の中には、美浜町上野間の中野甚右衛門もおりましたし、私の一族の青木友助もそうです。そういったメンバーが立川流といっしょに仕事をしながら、中野甚右衛門は立川姓になって立川甚右衛門と名乗りましたし、岸幕善之助の子岸幕喜四郎も立川喜四郎と名乗っていくわけです。次第に諏訪の立川流と合体していったことがうかがわれます。
 
 この知多の宮大工の歴史をひも解くことは、知多の山車作りの原点を知ることでもありますので、今後も研究をよりいっそう深めていきたいと思っています。
写真  上右:豊田市松平高月院 木取帳  中左:松平高月院にて(研究所研修旅行) 下右:岡崎慈光寺の棟札
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