尚冨の立川三昧

第15回 豊田市の挙母祭り 新しい山車の登場 − その1

 5年ほど前に豊田市から若者たちが、研究所の門をたたきました。理由を聞いてみますと、「山車を造りたいので、何か自分たちに出来ないかと考えたところ、彫刻をやってみようと思った。」という動機でした。豊田の挙母祭りの本東連という人たちでした。本東連というのは、どういう事かと言いますと、旧本町と東町の連合軍と言うことなのです。
 ここで、挙母祭りの歴史について、少し話したいと思います。
 挙母祭りは、愛知県文化財の八台の山車が登場して、華やかに行われています。その昔、二百数十年前に矢作川が氾濫して、被害を受けたことがありました。挙母の殿様の命令で、下町の本町が高台の方に移動させられました。その時に山車と共に移った住民と、移らずに下町に残った住民とが、二つに分かれてしまいました。
 ですから、昔はその本町(下町)で、山車を曳いていたところが、山の手の方に持って行かれてしまったがために、移り住まなかったたちには、山車がなくなってしまったのです。そうしたことが、歴史の中でありまして、それ以来、下町に残った旧本町の人たちは、次第に指をくわえて見ていることになりました。下町で本東連として組織をつくって、祭礼儀式などには、きちんと装束を着けて参加していました。ただそれだけで、本来の一番中心となるシンボル的な山車が無いままでした。そこで長年の夢として、山車が欲しいという願いがあったわけです。研究所に来た人たちも、親、そしておじいさんと代々その願いの中で育ってきました。自分たちの手で、どうにか出来ないかと思ったわけです。
 私自身、亀崎の潮干祭りのからくり人形を復活させた時に、そうした刺激というのは、町の活性化にもつながりますし、すごく大事な事だと思っていました。なんとなくその頃を思い出していました。ふるさとをとても大事に思い、なんとか地域のためにと考えることは、今の日本の若い世代のためには最も必要な事ではないかなと思いました。

 そんな中で、私たちも全面協力することになりました。研究所と後援会とで一致団結しまして、山車新造のプロジェクトを立ち上げました。後援会からは、半田山車祭りをがんばってこられた久野学さん。ご先祖は、宮大工として山車造りに腕をふるった、石堂家の末裔の設計士である石堂さん。こうしたスペシャリストをこのプロジェクトに組み込ませてもらい、豊田の若い人たちといっしょに議論を重ねて、青写真を作っていきました。
 どうしたら山車が出来るのだろうかという運営的なものについては久野さんが、実際に山車の設計に関しては、ボランティアで石堂さんが設計を重ねました。苦労もしました。半田の各地の山車のすでに使われなくなった古い材料を集めてみたり、少しでも役に立ちそうなものはないかといろいろ当たってみたりもしました。そうして、1年2年と時間が経っていきました。
写真  上左:豊田 挙母祭り 下右:後援会総会で協力を呼びかける本東の若者たち(中央はプロジェクトリーダーの久野氏)
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