尚冨の立川三昧

第16回 豊田市の挙母祭り 新しい山車の登場 − その2

 幸いそうした話を聞いていた地域の方の中で、バックアップをしてくださる方がすい星のごとくにあらわれて、山車を新造することになりました。平成15年4月6日に挙母神社で山車の完成のお披露目式がありまして、研究所、後援会を含めて十数名の者がその式典に参加して、出来上がった山車の雄姿を見ることが出来ました。本当に感動の一語でした。私たちが感動しているわけですから、その地域の二百年以上辛抱してきた人たちにとっては、言葉にもならない喜びがあったことは察するに余りありません。
 以前は本東連という連合体の名前になっていましたが、お宮の目の前の町ですので、本来の地区の名前にふさわしい、宮前町という組織の名前になり、歴史的な第一歩を踏み出したのです。紆余曲折のなかでの山車造りでした。

 挙母には、八つの山車が現在ありますが、八台が昔から整っていたわけではなく、順次増えていったのです。
 お祭りというものは、町の勢力によってだんだん変わっていく物です。また山車をシンボルとするお祭りには必ず競争があって、次から次へとよいものを作ろうということになります。今でこそ伝統という言葉の中で、守ろうという意識が非常に強くなっていますが、本来は「競い合う」ということが祭りの神髄だと思います。これは色々なことを競い合うわけですが、すばらしい山車を作って競い合うということもひとつだと思います。ですからここで新しく山車が出来たということは、その本来の感覚の中での出来事だと思います。長い目で見てみますと、最初は数台であったのが、だんだん増えて八台になって、ず〜と時代は長くかかったけれども、また九台目が出来てという競いの中での、山車の新造ではないかと思います。挙母のお祭りが、やっぱり生きているのだと実感する出来事だと思います。しかもこの山車をつくるに対しては、横のつながり、縦のつながりの人間関係が本当にうまくいっていないと出来ていかないことです。

 今、日本で叫ばれています道徳教育的な面から見ましても、隣近所の付き合い、あるいは友達関係、目上の方との接し方などさまざまな要素が潜んでいるこの山車作りだと思います。そういった意味で、この山車が古くも新しい町で、作り直され、産声を上げて、その町をまとめていくシンボルになると言うことは非常に大切なことではないかと思います。
 祭りは良くも悪くも住民しだいだと思います。この祭りによって人々の心が豊かになっていくような事がおきていけば一番良いことだと思います。これがまた、子ども、孫というような世代にどんどん受け継がれていって、先人の残した日本人のすばらしい良さを伝えていくことが出来るのです。これは山車のない地区からみたら、うらやましい限りではないかなと思います。

 今後、宮前町の山車がますます充実していくことを願っています。研究所も、全力で支援したいと思います。宮前町の方も大変だと思いますが、熱意を持って、これからも頑張って頂ければと思います。
写真  上左:完成した宮前町山車  中右:設計図を囲んで打合せに熱が入るプロジェクトメンバー  左下:建造中の山車
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