表題「立川流」
 立川美術館・立川流彫刻研究所
  関連団体:立川流棟梁家保存会・立川流彫刻後援会

諏訪立川流 概論

 日本の伝統彫刻は大きく分けると、仏像彫刻と楼閣建築の装飾をする宮彫とが挙げられる。宮彫は神社・仏閣などで普段生活の中で何気なく目にすることがあるのだが、意外と知られていない。
 宮彫は安土桃山時代から欄間などで見られるようになり、江戸前期で確立されたものである。その代表的なものが日光東照宮であろう。
 東照宮の装飾彫刻を思い浮かべてもらえれば宮彫とは何かがおおよそ察しがつくと思う。日本人には桂離宮に代表されるように「わびさび」を基本とした簡素な美を求めるものと、日光東照宮のように絢爛豪華装飾過多な美を追求するものとが混在している。この二つの建造物が同時代に作られたことを考えても、元来日本人はこの両面を追求する美意識があったのではないかと思われる。この宮彫の中でもその二面性は表れている。
こうした日本人の根底に流れる美意識と江戸時代に発展完成された最も日本人的な文化であることを基本に考えながら宮彫、中でも立川流彫刻を紹介してみたいと思う。
写真 上:日光東照宮 下:桂離宮

宮彫と流派

 宮彫とは前述のように神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻で、建造物の外回りだけではなく回廊、欄間などの室内にもおよぶ。そうした全ての空間部分をデザインし、下絵として絵画化し、それを立体的に木に彫刻して表現するものである。その内、欄間部分は簡略化され一般大衆化したものが民家の中で独自に発展し、現在も欄間屋さんとして親しまれている。
 宮彫は当初宮大工(堂宮師)の棟梁が簡単な模様や飾りを彫ることから始まり発展していった。江戸時代に入ると彫刻ができないと棟梁にはなれないと言われるほどでもあったようだ。その内、彫刻部分が発展し、堂宮大工と彫刻専門の宮彫師(宮師ともいう)が分化し、専門的になっていった。宮彫には流派が生まれ、その代表的なものが江戸前期では大隅流であり、後期では立川流である。
図:江戸時代の宮師

大隅流と江戸立川流

 大隅流は平之内大隅守がおこした流派で、幕府御用として、日光東照宮や湯島の聖堂などの造営にあたった。宮彫として流派を完成させたのはこの大隅流が最初であり、完成された宮彫の原点ともいえる。
 その大隅流から、分派したものに江戸の立川流があった。棟梁を立川小兵衛といい、江戸の本所立川通りで居をかまえていたことから、立川(たてかわ)流とよんだということである。その後、江戸の立川流も発展し、幕府御用となった。
写真 湯島聖堂

諏訪の立川流

 信州諏訪に桶職である塚原家があった。その子どもに和四郎がいた。これが通称「諏訪の和四郎」とよばれ、後の諏訪の立川流棟梁となった立川和四郎富棟である。
 和四郎は延享元年(1744)に生まれた。幼いころから絵画を好み、いっこうに家業の桶職を継ごうとしなかった。ある日、和四郎は思いたって宮大工の修業をするため、江戸に出ていった。江戸に出た和四郎は幕府御用の宮大工棟梁立川小兵衛富房のところへ弟子入りした。
 和四郎は天性の才を発揮し、めきめき腕を上げていき、棟梁の立川小兵衛に認められるところとなった。立川姓を許され、立川和四郎富棟と名のることとなった。立川小兵衛は和四郎を自分の後継ぎとして、江戸立川流棟梁となるよう勧めたが、和四郎はこれを断り、郷里信州諏訪に帰って独立し、小澤屋和四郎と名のり建築請負業を始めた。
 しかし、当時諏訪では大隅流が全盛を極めており、優れた彫刻を施した建物を作らなければならなかった。自分の彫刻技術の未熟さを知った和四郎は再び江戸へ向かった。
 今度は宮彫師中沢五兵衛に師事し彫刻の技を磨くことになった。数年の修業の後、諏訪に戻り、新たに立川流を興し、棟梁立川和四郎富棟として再出発した。
 これが諏訪での立川流の始まりで、一般的に「立川流」というと江戸の本来の立川流ではなく、諏訪の立川流のことを指す。それほど諏訪の立川流が後年隆盛となったからである。
写真 上:富棟像  下:富棟の初作 白岩観音堂

諏訪立川流の発展

 諏訪で再出発した立川和四郎富棟を待受けていたのは、大隅流との激しい競争であった。いさかいもしばしば発生した。
 そんな中で諏訪藩主は大隈、立川の両者をよび、腕を競わせることになった。諏訪大社の下社を同じ規模、同じ期間で同時に二つの社を作るよう命じた。
 どちらも全力を注ぎ見事に完成した。大隅流の作った社を「春宮」、立川流の作った社を「秋宮」といい、現在もその当時の姿で下諏訪町に存在している。
 結果は立川流の評判が勝り、立川和四郎富棟の出世作となり、以後立川流は大隅流を圧倒し発展していった。
 

写真 左上:諏訪大社下社 春宮(大隅流)  右上:諏訪大社下社 秋宮(立川流)
中、下:秋宮の彫刻

立川流彫刻の完成期

 立川和四郎富棟の子どもに、二代立川和四郎富昌がいた。
 富昌は父を尊敬し、後を継ぎ棟梁として世に名を馳せた。富昌は、天才的な才能を持ち、その優れた美術感覚と卓越した彫刻技術によって、父から受け継いだ立川流の彫刻を従来の単なる装飾彫刻から、芸術の香り高い彫刻へと一気に押し上げた。ここで富昌の作品は建築の一部から独立した彫刻作品として鑑賞できる域まで脱皮した。
 富昌の最も優れたところは絵画力である。富昌は画家としても十分通用していた。
 装飾する壁面をキャンバス画面として富昌は次々と優れた下絵を描き、彫刻化していった。また、立川流の特徴とも言われる木目を生かした味わいのある素木彫刻としても完成していった。
 時代は江戸後期文化年間後半から文政の頃であった。
 従来の彩色彫刻と比べると費用もかからずできる上に、富昌の素木をたくみに生かした作品は、彩色表現に匹敵するほどの表現力を創り出していた。そうしたことが一般大衆から受け入れられ、富昌の評判は全国各地に広がり、富昌への発注が相次いだ。
 ここで、富昌の経営者としての優れた手腕が発揮された。富昌は多くの有能な弟子を育て、自分に匹敵する技術をもった立川常蔵昌敬、立川音四郎種清らを棟梁として、自分の分身として各地に送り出した。立川和四郎富昌作としての膨大な作品群はこうして生まれていった。
 寛政の改革で有名な松平定信は富昌の評判を聞き、富昌を大いに可愛がった。実力に加え、こうした後押しもあり、江戸幕府からは「内匠(たくみ)」の称号が与えられ、江戸幕府御用となり名実ともに日本一の彫刻師となった。
 この当時、富昌は一般大衆からは「幕末の甚五郎」とよばれていた。
写真 :二代目立川和四郎富昌の肖像画

江戸時代の立川流作品

 二代立川和四郎富昌の活躍で立川流は大いに発展し、本州中央部一円に数多くの名作をのこしていくことになった。
 当初は建物だけであったが、次第に山車の装飾を手懸けるようになり、名品を残している。
 建物では日光東照宮以来の幕府大造営となった静岡浅間神社は初代立川和四郎富棟、二代富昌、三代富重と親子孫立川家三代の期間にわたって造られた。
 その他、長野善光寺、京都御所、静岡秋葉神社本宮、諏訪大社上社、豊川稲荷、山車では亀崎の山車、高山の山車などが代表的で、現在多くのものが国や県の文化財に指定されている。

写真 上:静岡浅間神社  文左:諏訪大社上社本宮
文下:亀崎潮干祭、山車彫刻

立川流系図


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